カフカのエピソードでひとつすごくいいのがあるんです。ベルリン時代の出来事なんですが、カフカが恋人と一緒に散歩していると、公園で小さな女の子が泣いてる。どうしたのかと訊くと人形が無くなっちゃったという。それでカフカはその子のために人形からの手紙を書いてやるわけです。本物の手紙のふりをして。「私はいつも同じ家族の中で暮らしていると退屈なので、旅行に出ました。でもあなたのことは好きだから、手紙は毎日書きます」みたいなことを。それで実際に彼は、その子のために一生懸命毎日偽の手紙を書くんです。「今日はこんなことをして、こんな人と知り合って、こうなって」と三週間くらいずぅーっと書いていって、子どもはそれによってだんだん癒されていく。最後に、人形はとある青年と知り合って、結婚しちゃいます。「だからもうあなたにお会いすることはできませんが、あなたのことは一生忘れません」っていうのが最後の手紙になっている。それで女の子もすとんと納得するわけです。
そんなまめなことって、普通の人にはできないですよね。ぜんぜん見ず知らずの女の子なわけだから。なぜカフカにそんな面倒なことができるかというと、夢の、架空の他界の細密さに対する異常なこだわりが彼の中にあるんですね。だからその具象性を細密に描写することを毎日毎日やっていても飽きない。面倒じゃないんですね。女の子も人形を失った悲しみは、「人形からのお手紙」を受け取り続けることによって消えちゃうんです。彼女は人形が無くなったという無秩序から、人形が無いという新しい秩序へと移されるわけです。それは本当に素晴らしい話だと思うんだけど、でも僕も、そういうのはいくぶんはできそうな気がする(笑)。
さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。
CHERUBIM’s NAHBS-winning Hummingbird!
♠K:ダビデ王(古代イスラエル国王)
♠Q:パラス・アテナ(ギリシャ神話の戦いの女神)
♠J:オジェ・ル・ダノワ(カール大帝の騎士)
♥K:カール大帝(フランク国王)
♥Q:ユディト(ユダヤの女戦士またはカール大帝の子の妻)
♥J:ラ・イル(ジャンヌ・ダルクの戦友)
♦K:カエサル(古代ローマの軍人、政治家)
♦Q:ラケル(旧約聖書のヤコブの妻)
♦J:ヘクトル(トロイの王子)
♣K:アレキサンダー大王(マケドニア国王)
♣Q:アルジーヌ(シャルル7世の妻、アンジュー公女マリーまたは愛人のアニェ・ソレル)
♣J:ランスロット(アーサー王に仕えた円卓の騎士の1人)
やってしまった後悔はだんだん小さくなるけど、やらなかった後悔はだんだん大きくなる
ずっと前に、自転車の中野浩一が「競輪界のトップレーサーには良いやつしかいない」というようなことを言っていた。これは「トップになる人間にはそれなりの人間性が求められる」……といった精神論などでは全然なくて、もっと実際的な話だ。
というのも、競輪というのは、「勝つこと」は難しいけれど、「誰かを勝たせないようにする」のは比較的簡単なのである。ラインを作って走ることの必然性から、反則などしなくても、誰かを二着以下に沈めることは問題なくできるのだ。
だから、誰かから嫌われるような性格では、どうしたってトップに行けないのである。結果、勝つ選手は誰からも好かれる良い人間に限られてくる。「あいつになら負けてもしょうがないな」と周りから思われるくらいでないと、競輪界のトップに立つことは難しいのだ